無念という名のバトン。

3月11日。

 

様々な人が、様々な想いを駆け巡らせていらっしゃると思います。

 

あれから、2年。

 

まだまだ、悲しみの渦の中にいる人がいる。

まだまだ、希望さえも見えない人がいる。

まだまだ、会いたくてたまらない人がいる。

まだまだ・・・。

 

僕は、生きているってことで、苦しんで、悩んで、どうしようもなくなっている人が

いるってことは、自分なりに理解しています。

「死にたい」って、思う子どもの気持ちも、少しはわかるつもりです。

 

だけど、こんな理不尽なことで、何もかも、流されてしまった現実。

命があるだけでも、奇跡的なのに、どうして、それ以上に何かを求めては、

何かを責めてしまうのでしょうか。

 

僕は、子ども達に対して、「ありのまま」でいいなんて、簡単に言えません。

極論から言うと、ありのままの気持ちで、自分がこの世からいなくなりたいと

思った時、大人は「いいんだよ、そのままで」と言うってことです。

 

そんな時は、全力で阻止しなければならない。

命をつなぎ、守り続けることは、とてつもない労力を必要とすることだと思います。

 

命がなくなったら、それで全てがなくなるわけじゃない。

だけど、その命があるからこそ、生きられている人がいるはずなんです。

それを失うってことは、他人にはわかるもんかって、思うんです。

それをわかったふりしちゃいけない。

だけど、少しでも、わかりたい。そんな葛藤があります。

 

その人がいるだけで、安心できる。

その人がいるだけで、強くなれる。

その人がいてくれるだけで、踏ん張れる。

 

そういう気持ちは、無理して、押し込めてはいけないと思います。

確かに感情を出してしまうと、そのまま、何かが自分の中で音を立てて、

崩れ去ってしまうような、恐怖感があるかもしれない。

だけど、空気や水もそうだけど、溜めたままにしたら、ひどく濁ってしまう。

だから、たまには入れ替えてあげることも必要で、その為には、その溜まったものを

外に出してあげることが必要なんじゃないのかなって思います。

 

僕にできることは、ほんの少しのことだけかもしれません。

だけど、これは、発達障害に限ったことじゃなくて、様々な重い荷物を心に背負っていて、

今にも倒れそうな人達にささやかだけど、全力でエールを送りたい。

 

その為には、誰かから借りてきた言葉じゃなくて、もちろん、言葉ってのは、

既存の文字の寄せ集めなんだけど、自分なりにその言葉に魂込めて、届けていきたい。

 

それは、命ある者に渡された、無念という名のバトンだと思うから。

ここで止めるわけにはいかない。

 

合掌。

 

南雲明彦

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