嫌という矢を感謝の的へ。
暑い日々が続いていますね。
クーラーが好きではないので、扇風機をずっと使っていましたが、さすがに難しい季節に
なってきました。汗
先週末は、講演を始めて間もない頃から知っている方々に久々にお目にかかってきました。
一人は、僕と同じような子どもを持つお母さん。もう一人は、僕とは少し違うけど、
途切れず縁が続いているご家族。
自分は他の人に偉そうに何か言えるわけでもなく、その人の人生を変えたいとは特に思っていません。
これは、その人達のことを考えていないわけではなくて、結構考えていたりします。
だけど、あまり肩肘張って、その人達と向き合うのは、僕の立場からして、とても違和感がある。
そうしてしまうと、逆に相手に余計な気を使わせて、ぎこちない関係になってしまう。
これでは、かえって相手に申し訳ないと思っています。
最近、よく思うのですが、発達障害の人に対して、あまりにも周りの「発達障害目線」が
強すぎて、分析してしまいがちになります。
例えば、少しでも何か飲み物を溢せば、「注意が欠陥しているのかな」とか、
メニューを読み間違えれば、「読字に困難があるのかな」と過剰に反応してしまい、
その子ども達が「発達障害者のサンプル」のような目で見られてしまう。
もちろん、専門家の目で、良い意味で「疑う」というのは大事な事です。
でも、その先には「少しでも楽に生活や勉強ができるように」という前提があるからこそ、
その「疑い」は、よい方向に進んでいくのです。
それなのに、その大前提を忘れている人が出てきている気がして、少し悲しさを覚えています。
発達障害だけで語れるほど、人間は簡単に創られていません。
親御さんやとても近くにいる人達なら、わかります。
だけど、たまに会う人、今回で言えば、僕がいきなり、その人達に説法するような真似はしたくない。
ありがたくもない迷惑だと思いますよ。
でも、せっかく縁があって、知り合いになれたのだから、相手に必要と思ってもらった時は、
できるだけ、側にいて、一緒に笑っていたい。ただ、それだけなんです。
その中で、もし参考になるような事があれば、喜んで伝えます。
最近入ったカフェで、たまたま調理場が近かったので、新人さんと先輩のやり取りが目に入ってきました。
先輩になって、指導することはとても素敵なことですが、新人さんの事を想っての行動ならいいけれど、
端から見ていても、「先輩という優越感に満たされたい」という願望が出ていて、指示はむちゃくちゃで、
新人さんは困惑しっぱなしでした。
自分がその人だったら、とても嫌だし、「新人」という肩書きだけで、見下されるのは困る。
これは発達障害にも言えて、同じ特性があって、少し長く生きているくらいで、偉そうに何か
言われたら、たまったもんじゃない。
でも、実は逆に、生きていれば、そういう人と会う機会は必ずあると思います。
その時に、「嫌だ」という感情を「嫌だ」で終わらせては勿体ない。
その先に、「でも、先に知ることができてよかったな」って、その先輩を見て、
変な話ですが感謝できると、「学び」がいかにそこら中に溢れているか、わかると思うんです。
嫌という矢を感謝の的へ射抜ければ、視界は変わる。
だから、極端にいえば、いつも通り過ぎてしまうベンチで、寝転がって、
空を見てみるだけでも、新しい未来が始まる気がしますよ。
・・・と、少し先輩目線で言ってみたのでした。笑