自然な役割。
あっという間に9月に入りましたね。
まだまだ、残暑が厳しい。
こちらは引越しが一段落したのはいいのですが、あれよあれよと見つかる欠陥。
こういう時って、怒りたくなると思うのですが、自分は変な話ですが、良い兆候だと思ったりします。
これは皆さんに当てはまるものではないと思うのですが、自分の場合、何か新しい発展や出会いがある前というのは、大抵、何かが壊れたりします。
壊れることで、始まることもあるんですよね、不思議と。
ただ、自然に崩れていくのはいいのですが、「壊す」となると話が別になります。
破壊していった先には、その破片で、自分が負傷してしまう可能性も高いからです。
そして、何かが壊れても、自分が壊れてはいけない。つまり、目の前の現象を肯定的に捉えるというよりは、自然に壊れたものについては、流れに逆らわず、自然に受けとめる方がいい時もあるんですよね。
こういう時、不満や怒りが出てしまう可能性がありますが、そもそも、この気持ちって、頭に「普通」という言葉が来ることが多い気がします。
「普通、事前に大家さんや前の住人が責任を持って、直すはず」
とか、
「普通、こんな事は有り得ない」
など、
「普通」に囚われているが故に、心が不自由になってしまいます。
もちろん、自由と責任は隣り合わせだと思うけれど、心が自由であることが、大切だと思っています。
そして、自分がとてもリラックスした状態であれば、波長が合わない人、物が出てくるのは当然なんですよね。
波長というか、空気感が合わないと、自然と距離ができたり、なくなったりするものだと思います。
そんな風に考えていると、足元や空を見る余裕が生まれます。
足元には、
栗。
どうやって、殻を破って自分から出てきたのでしょうか?笑
こうして、道端に転げ落ちていた栗であっても、誰かに秋の訪れを知らせてくれます。
1つ1つには意味があり、役割がありますね。
人も同じです。
1人1人に生まれてきた意味があり、役割がある。