幸せの鐘。

最近、ある方から「どうして、当事者会に出ないんですか、勿体ない」

と言われました。

僕としては、このような会はとても意味があると思います。

同じような経験をした人と会ったことがなければ、なおさらです。

 

僕も同じように最初は、当事者会に参加したことがありました。

しかし、今は全くと言っていいほど、参加していません。

当事者会や参加しているメンバーに不満があるとか、そういうことはありませんが、

単純に「自分には向いていない」というのが理由です。

当事者会の大きな機能として、「共感」があると思います。

だけど、僕はこの「共感」を得たいという意識があまりありません。

もちろん、否定ばかりではしんどいかもしれませんが、「共感」に満たされてしまうと、

自分の場合、ストイックさがなくなってきてしまい、「このままでいい」と思って

しまいがちになるからです。

 

そして、一歩外に出れば、全然、違う世界が待っています。たまに帰る場所という

認識ではありだとは思いますが、僕は共感し合っている時間があったら、修行の場に

行き、その鮮度の良い経験を少しでも、子ども達に渡すことができたらいいなって

思っているのです。

 

それに当事者会でなくとも、自分を必要としてくれる人、お役に立てる場所は、

必ずあると思っています。まずは信じることが大事です。

その為には、自分の存在を色々な人に示していく必要があります。

 

当事者で同じような特性の人が二人にいるとします。

他の人が、どちらか一人を選ばなければいけない場面になった時に、判断材料は、

その特性ではありません。自己満足的な長所でもありません。

 

「この人のこの部分を自分は必要としている」

 

と、判断してもらった時、その人と生きる選択をするはずなんです。

 

こう考えると、スーパーマーケットに行っても、ヒントだらけなんです。

同じようなペットボトルの飲み物があっても、ボトルの形状も違えば、

パッケージのデザインも違うし、味も違う。だけど、なぜか買いたくなるものって、

ありますよね?

 

つまり、いつも自分がしている行動の中に大きな発見がある。

 

「自分はなぜ、この商品を選んだのか?」と考えると、「安いから」とか「幼少期から

慣れ親しんだ味だから」とか、「飲みたいものがこれしかないから」と、何かあるはず

なんです。

 

結果的に、お金と引き替えに、その満足感とか幸福感を得ている訳なんです。

 

もちろん、人身売買のようなことを言いたいわけではありません。

 

自分の存在や行動が誰かの幸せにつながった時、そこに対価は発生します。

そのお金で、自分は生活でき、お互いに幸せになるわけです。

仕事は、幸せの分け合い。素晴らしいですね。

 

共感も大事ですが、「共鳴」はもっと素敵だなって思います。

共に幸せの鐘を鳴らし合い、未来へ足音を奏でていく。

その為に、自分という鐘を磨くことで、とても心地よいメロディーが、

周りの人、もっと言えば、街中に流れていくと思いますよ。

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